2017年4月17日月曜日

今川義元の一族(兄弟・子供・伯父・伯母・従兄弟)など詳しく教えて下さい。 フリー百科事典『ウィキペディア』以外でお願いします。 補足

父 今川氏親(幼名は龍王丸。北川殿の弟(兄とも)が後の北条早雲であったことが、氏親の生涯に大きな影響を与えた。) 母 寿桂尼(じゅけいに)藤原北家、勧修寺流の公家の出自で、父は権大納言中御門宣胤(なかみかどのぶたね)。兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。 兄弟 今川氏輝(彦五郎と同日に死去している突然死には諸説があり) 今川彦五郎(当主とともに死亡という異様な状況や、記録の残り方の不可解さ、彦五郎の名が今川家歴代の後継者が名乗る通称とされていることから、「氏輝と彦五郎の死」についてはさまざまな解釈が行われている) 今川氏豊(幼名は竹王丸。那古野城主。織田信秀に城を乗っ取られる。) 玄広恵探(げんこうえたん)=(母は今川氏の有力家臣、福島正成の娘。今川良真と名乗っていたという説もある。義元の庶兄。早くから花倉の遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持となり、花倉の乱で義元に敗れる)。 瑞渓院(北条氏康室) 女(松平親善妻) 女(中御門宣綱室) 正室 定恵院(武田信虎の娘・信玄の同母姉) 子供 今川氏真(武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府のもとで高家として生き延びた) 嶺松院(武田義信室)義信自害の後、実家に戻り出家。かつて父に従属していた徳川家康が江戸幕府を開いて天下人となった事等を見届けて、慶長17年(1612年)に死去。 泉奘 一月長得 隆福院 牟礼勝重室 伯父 今川心範 伯母 女(正親町三条実望室) Yahoo!百科事典・今川義元 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83/ Weblio 辞書 http://www.weblio.jp/content/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83 今川家家臣団 http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/imagawa.html 「家臣についても詳しくお願いします」との事なので、ネットではないのですが、記載しておきます。 「戦国大名家臣団事典」(新人物往来社刊・東国編・西国編)では多くの家臣を網羅しています。 「寛政重修諸家譜」などの幕府編纂の系譜には、幕臣となった朝比奈・岡部・富士・伊丹氏など。 山内一豊に仕えた者は、「一豊公記」所収の「御家中先祖書及分限記」と、「一豊公御入国御供侍附」から、岡部・朝比奈・由比・孕石(はらみいし)・松井氏など。 「一豊公御入国御供侍附」によれば、そこに記載されている175人中81人が今川遺臣のようです。 紀州・徳川頼宣に仕えた、「南紀徳川史」所収の「南竜院様御入国御供姓名録」にも今川遺臣で、比較的高禄を食んでいた12人(3000石~250石)をはじめ、多くいるようです。 徳川四天王のひとり、酒井忠次に仕えた朝比奈氏など。 同じく四天王のひとり井伊直政に仕えた三浦氏など。 私も総べて見ている訳ではありません。大きな図書館に行けば全てではないにしても、揃えてあると思いますので、一度見てみられたら、面白い発見があるかもしれませんよ。

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